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今日は、浅草にあるチェコの絵本と雑貨のチェドックさんへ。 浅草も久しぶりでチェドックさんも久しぶりです。 この前の7月半ばまで、谷中のひるねこブックスさんで個展を開催したばかりの北岸さんですが、続けての個展です。チェドックさんでの北岸さんの個展は1年ぶりです。 個展が開始されてから4日目。原画はほとんど売約済みでした。 一番よかったのは、4階建の動物たちの家の絵です。チェドックさんも4階建なので、チェドックさんがモチーフになっているのかな、と思いました。北岸さんのイラストで大好きなモグラもいろいろな絵に登場していて可愛いです。 北岸さんのイラストの包装紙2セットを買いました。ブックカバーにしたいと思っています。 個展は、8/10月曜までです。 浅草は、わたしの遊ぶ東京の中でも一番遠いところの1つです。浅草にでたら、久しぶりに旅気分を味わえました。 チェドックさんのお隣りの、駒形どぜうさん。ずっとどじょうを食べていません。 浅草の吾妻橋から望むスカイツリー。 スカイツリーの上を羽田発の飛行機が飛んでいます。 #
by momokororos
| 2020-07-31 22:22
| 雑貨
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荒木経惟さんの『さっちん』。 まさに生きている実感が感じられような男の子の表情が魅力の写真集です。 このあいだ、中目黒の COWBOOKSさんで、荒木経惟さんの伴侶の荒木陽子さんの『愛情生活』という本を見つけて手にいれました。 その足で、学芸大学の流浪堂さんにおもむき、荒木陽子さんや荒木経惟さんの話しをしていて、荒木経惟さんの写真集は、『食事』しか持っていないのだけど他にいい写真集はないですかと聞いてみたら、流浪堂のご夫妻2人とも『さっちん』を挙げてくれました。 お店にあるということで見せてもらうと、素敵な写真集でした。 昭和30年代でしょうか、さっちんという男の子の日常が撮られています。 今は、怒られそうで禁止されそうな遊びの風景です。むしろ放置されている車のほうが問題とされるような時代かもしれません。 その頃も危ないことをすると、怒られたり注意されていたと思いますが、注意する側と注意される側に共通の意識があるとともに、両者の関係性もあったかと思っています。そして、いまのように社会全体の責務の中で、誰の責任でとか、誰の責任かと問われるような感じではなかったように思われます。 事故が起こると撤去される遊具、さらに事故が起こらないようにあらかじめ撤去されてしまう遊具。安全を追求すること自体はよいことだと思いますが、そのことを追求するあまり誰かの責任にして責めるような状況になったり、かかわりを持たないことや無関心をよそおうことになってしまっているような感じがします。 荒木経惟さんの写真をみると、子どもたちと同じ目線で楽しんでいるかのようです。いわば共犯者的な目線です。 今は、町の子どもを許可なくスナップすることはできなくなりましたが、この写真の生き生きした表情の子どもたちを見ると、いい時代だなと感じます。 人と人とのいい時代〜本橋成一さんの『上野駅の幕間』の写真 2017年6月14日の日記 #
by momokororos
| 2020-07-26 22:18
| 本
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先日、谷中のひるねこBOOKSさんを訪れていたときに、映画の紹介の素敵な小冊子を見つけました。 亀石みゆきさんの『CINEMA TALK VOL.1』。 表紙の絵は、『赤毛のアン』のアン・シャーリー。 児童文学と映画の特集です。 「長くつ下のピッピ」。 『点子ちゃんとアントン』。 ![]() この映画の本には、『赤毛のアン』も載っているのですが、本は読んだことはあるのですが、映画はみたことがありません。 『赤毛のアン』は、奥にしまってあったのを最近とりだして、そばの本棚にいれていました。ただずいぶん前に読んだのですが、また読んでみようかなと思います。 ![]() 『長くつ下のピッピ』は、ついこのあいだ奥にしまいこんでいたのを探したのですが見つかりませんでした。どこにしまったのかわからず引きつづき探してみたいと思います。 この映画の小冊子は4冊でています。
![]() ![]() ![]() とってもかわいいイラストの冊子です。 これらの冊子に載っている映画は見てみたいと思っているのですが、原作の本を読んでいると映画をみるしきいが高くなります。 「長くつ下のピッピ」は、ブックハウスカフェのスタッフさんにもすすめらたので見てみようかなと思います。同じリンドグレーンさんの「やかまし村の子どもたち」もすすめられて見ています。 #
by momokororos
| 2020-07-25 22:06
| 本
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米本浩二さんの『評伝 石牟礼道子』を読んでいます。 少し前に手にいれたのですが、少し読んでそのままになっていました。 こちらは、高校生くらいのときに買った本です。 しばらく前に、『苦海浄土』を読もうと思い、奥から取りだしてきて読みすすめていたのですが、しばらく読むと暗澹たる気持ちが湧きあがり読むのを諦めてしまいます。何度もこの繰り返しです。 石牟礼道子さんの本は、素敵で、入るとすぐに出ていってしまうという話しを、学芸大学の流浪堂さんを聞いて、数ヶ月くらい前から『苦海浄土』をまた読んでみたのですが、やはり無理で諦めました。 「読みたい」「読めない」が、いつしか、「読まなくちゃ」「読めない」になっていたような気がします。 小学校のときに社会の教科書に載っていた水俣病。そのときの印象を引きずっているからかもしれないと自分では思っていたのですが、ふとネットで、『苦海浄土』が読めない、という文章を目にしました。 読めなくてもいいんだ、という気持ち。 自分が読めない、できないと思っていることを、他人も同じように思っていることがわかるだけで、ふとココロが軽くなり救われたような気がしました。 ふたたび手にとった『評伝 石牟礼道子』には、こう書かれていました。ふた 石牟礼道子を読みながら、もう一つ思うことは、水俣病にとらわれすぎると石牟礼道子の正体(正体なんてあるのだろうか)を見誤るということである。水俣病はむろん道子の生の核心であり、「正体を見誤る」というのは言い過ぎとしても、常に水俣病に収斂する読み方をしていれば、石牟礼文学の豊かな可能性の芽を摘むことになりかねない。ではどんな読み方ができるのか。たとえば、普通に生きることができない人に石牟礼文学は向いている。 [米本浩二、『評伝 石牟礼道子』より] 『評伝 石牟礼道子』には、道子さんが子どもの頃にかわいがってもらった女郎の話しや、海の渚の話しがでてきます。 『評伝 石牟礼道子』の副題は、「渚に立つひと」。『評伝 石牟礼道子』を読むと、石牟礼道子さんが渚にたち、陸と海のはざまで、こちら側からあちら側、あちら側からこちら側をみながら、のちに、相手と自分、生と死のはざまに思いを馳せる石牟礼道子さんの姿を思いおこします。 石牟礼道子さんが結婚をするときの気持ちについても綴られています。 嫁は、起きているあいだは働きどおし、明るいあいだは畑にいなければならぬ、というのが当時の封建的農家の常識である。 のちに水俣病闘争にかかわるようになった道子は、憧憬に似た希求の果ての、夢幻のようなイメージ世界を「もうひとつのこの世」と呼んだ。《私の中にある美しいものが最上の力を注いで作り上げた園》である「にじの国」とは、「もうひとつのこの世」の別名といって差し支えあるまい。「もうひとつのこの世」は水俣病闘争だけが特権的に抱懐したのではなく、道子の生に深く根差したものであるということが、『虹のくに』を読むと納得させられる。(中略) 《なべてのひとの耐えてあゆみし道ならむわれもしづけくゆくべしとかや》 婚礼直後に詠んだ歌である。のちに道子は、辛苦を抱え込んで生きた女たちを「死たち」と呼ぶ。代々の女が耐え忍んできた道ならば自分も忍ぶにやぶさかでない、という覚悟がにじむ。人間を含めた生類一切のかなしさを働哭するかのようだ。 [米本浩二、『評伝 石牟礼道子』より] 結婚というハレの舞台にもかかわらず、彼女の嘆きや悲しみが綴られていて、思いや考え方がよくわかります。 主人、家内……。呼び名がなじめない。結婚は独身時とは違う懊悩をもたらした。 《もともと、「私」と「あなた」の判別は峻烈に"違います"というしるしをかかげて名前というものが誕生したものだろうと思うのに、その私とあなたの違いが、異性を所有していますというしるしとして通用するこれら呼名のかずかずは、みみっちくて、みみっちいのは知っていて使わねばならぬのに閉口しているのです》(「愛情論初稿」)。夫婦の掟、男女の愛とは何なのか。 《新婚? そんな気分の記憶は、私の方にはかけらもありません》 [米本浩二、『評伝 石牟礼道子』より] 分け隔てなく、さらに相手の身になって考えようとする、石牟礼道子さんの片鱗をうかがわせます。 まだ途中までしか読んでいませんが、このさき読みすすめるのが楽しみです。 #
by momokororos
| 2020-07-24 21:37
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雨の合間の今宵。
なにが読みたいか、いつものように思いを巡らします。 #
by momokororos
| 2020-07-23 23:33
| 本
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