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西田幾多郎さんの「主客合一」と茶道の「主客一体」〜西田幾多郎さんの『善の研究』

先日、西田幾多郎さんのことを書きましたが、とうとう『善の研究』も手に入れて読み始めました。

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西田哲学の1つのキーワードの「主客未分(主客合一)」について、先日の日記にはこう書いています。

われわれは、認識する側(主観)と認識される対象(客観)という図式の中でモノを認識しているが、この枠組みをはずして、認識主体の「私」もない、純粋経験でモノを感じ、主客の対立ではなく、根本的なモノの見方として提唱されている「主客未分」という「我を忘れて一生懸命(一心不乱)に行為している状態」でモノごとを見ることと、
モノとなって見たり考えたりすること、が事実をとらえることであることを説いています。西田さんは「事実には主語も客語もない」と表現しています。お茶や芸術の世界とも通じるものがあることがわかってきました。

と、書きましたが、お茶の世界には「主客一体」という考え方があります。

「主客一体」は、もてなす主人だけではなく、客もその茶会の場を作りあげていく、というもので、主人のもてなしをだけではなく、そのもてなしを機敏に察知でき気配りができる客として、対等に振る舞うということです。サービスをする側、サービスを受ける側という風に分けて、サービスを受ける側だから何を要求してもいい、どんな振る舞いも許されるというようなものではありません。主人(サービスを提供する側)とお客が対等の関係であることです。
リッツ・カールトンは「紳士淑女にお仕えする我々も紳士淑女です」を謳っており、対等で双方向の関係から感動を生み、お互いが満足するということをめざしているそうです。

むかし読んだ『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』を再び読んでみました。

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西田幾多郎さんの「主客合一」は、こんな風に説かれています。

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感じられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。(中略) また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。
[西田幾多郎、『善の研究』 第4編第5章 知と愛]

上記文章の「親が子となり子が親となり」というのは、互いにわがことのように感じられる、ということを意味し、「他人の感ずる所を直ちに自己に感じ、共に笑い共に泣く」というのは、異なるものが異なるままでひとつになること、共鳴するということです。われわれはいろんなことを2つに分けがちであるが、そう簡単には分けることができず、そういうものが分かれないものであるのが本当である、ということを西田さんは言っています。


『善の研究』の冒頭部分には、「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主も客もない、知識とその対象が全く合一して居る」と書かれています。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである、純粋というのは、普通に経験といって居るものもその実は何等かの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其の儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主も客もない、知識とその対象が全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である。
[西田幾多郎、『善の研究』 第1編第1章 純粋経験]


本屋さんで西田幾多郎さんの『善の研究』を初めて見たときは、難解な文章で、何度も買うのをためらいその棚から立ち去りましたが、少し知識が増えた今ふたたび読んでみると少しわかるようになってきました。
解説から入るのは、西田さんがいう純粋経験、すなわち、「我を忘れて一生懸命(一心不乱)に行為している状態」でモノごとを見る状態、ではないですけどね。
西田さんの原著を読みながら、自分の体験に結びつけられれば、と思います。


西田幾多郎記念館〜金沢の小料理屋さんの大将からすすめてもらった哲学者
2019年11月1日の日記






by momokororos | 2019-11-12 22:38 | | Trackback | Comments(0)

女性作家さんの本棚〜お部屋の本棚整理(其の二)

見えるところに本を並べるのが夢。

全部の本を見えるところに並べるのは無理なのですが、好きな女性作家さんの本棚を作りたくて、ときに部分的に作ったりもしていたのですが、好きな女性作家さんだけでも膨大な本でままなりません。


思いきって1つの本棚に入っている本をすべて空けて、女性作家さんの本を並べました。写真の右側の本棚が新しく作った本棚になります。

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結局すべては並べきれずに、文庫本などの本は、本棚の本の並びの後ろのスペースにいれこんでしまいました。そして本棚の上にも少し積みました。

この女性作家さんの本棚を作ったので、1個分の本棚のすす払いができましたが、これまで入れていた大型本を抜いて、見えないところにしまいこんであった女性作家さんの本を本棚に入れたので、抜いた本が部屋に山のように林立して、一時は目もあてられないほど部屋が荒れていました。

片づけはまだ収束はしていないのですが、少しだけ先がみえてきた感じです。




by momokororos | 2019-11-09 22:11 | | Trackback | Comments(0)

ロシアと東欧の絵本の本棚前のスペース〜お部屋の本棚整理(其の一)

お部屋の本の整理中。

しばらく前から本棚の整理していたのですが、1ヶ月くらい前に、姫路のおひさまゆうびん舎さんと本のことと本棚の写真のアップについて話していました。そのときは積まれた本が林立していたので当分無理かなと話していました。
雑誌を300冊くらい処分しながら空きスペースを作り、本棚の前に積みかさなっていた本の山を崩して、やっと部分的に紹介できるようになりました。

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ほんの部分ですが、ロシアと東欧の絵本の本棚の前のスペースです。ストームグラスとマトリョーシカ、そしてトラネコボンボンさんの本を2冊を並べました。




by momokororos | 2019-11-05 22:16 | | Trackback(5) | Comments(2)

西田幾多郎記念館〜金沢の小料理屋さんの大将からすすめてもらった哲学者

西田幾多郎さん。

金沢のよく行く小料理屋さんの先代の大将から、1年くらい前から石川にある西田幾多郎記念館をすすめてもらっていました。いまの大将からもすすめられています。

西田幾多郎さんは石川県かほく市の出身で、京都の哲学の道の由来になった哲学者です。よく疎水沿いを散歩していたそうです。金沢で大好きな「鈴木大拙記念館」の鈴木大拙さんと西田幾多郎さんは親しい交友関係にあったとのことを知りました。

西田幾多郎記念館は金沢市内から少し遠くて、西田さんの『善の研究』などの本を読んでから訪れたいなと思っていました。
しかし、西田さんの『善の研究』はかなり難解で、本屋さんで立ち読みをしては諦めていました。『善の研究』の解説をしている本も何冊もあるのですが、これらの解説ですらむずかしい。
迷いに迷って、岩波新書の『西田幾多郎』を買って読んでみました。

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読みにくさはあるものの、読んでみると西田さんの考え方はとっても面白い。面白いと思ったらあっとゆうまに読んでいました。

そして、本屋で見ていた『福岡伸一、西田哲学を読む』を続けて読んでいます。

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福岡さんは、ずっと昔に『生物と無生物のあいだ』という本を読んでます。

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生物学者の福岡伸一さんと西田哲学を研究している池田善昭さんの対談の本で、西田幾多郎さんと福岡伸一さんの考え方が共通していると結びつけて対談していて興味深い。

この前の月曜のEテレで、「100分 de 名著 善の研究 西田幾多郎」の最後の放映があることにたまたま気づいて見ていましたが、わかりやすい解説をしていてワクワクしました。連載の放映はこの回でおしまいになってしまいましたが、放送のテキストを買いました。

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西田哲学のキーとなる言葉は、難解な「純粋経験」、「主客未分」、「絶対的矛盾的自己同一」などがあります。

われわれは、認識する側(主観)と認識される対象(客観)という図式の中でモノを認識しているが、この枠組みをはずして、認識主体の「私」もない、純粋経験でモノを感じ、主客の対立ではなく、根本的なモノの見方として提唱されている「主客未分」という「我を忘れて一生懸命(一心不乱)に行為している状態」でモノごとを見ることと、モノとなって見たり考えたりすることが、事実をとらえることであると説いています。西田さんは「事実には主語も客語もない」と表現しています。お茶や芸術の世界とも通じるものがあることがわかってきました。

「絶対的矛盾的自己同一」は、「異なるものが異なるままで1つになること」で、いろんなことを2つに分けがちだけど、そう簡単には分けられず、分かれないのが本当である、というものでした。過去、現在、未来や、自分と他人(自分と多)など分けられないものとしてみるのが西田哲学みたいです。

多様性や人とつながることにも通じるし、世界の見方としてすごく興味ある考え方です。もう少し勉強して、これまでの自分の経験や考え方とつながれば、上手に西田さんの言っていることを語ることができるようになるかと思います。

金沢に行って、小料理屋さんの先代の大将や今の大将と、西田幾多郎さんの話しをしたり、西田幾多郎記念館に行くことが楽しみになってきました。



by momokororos | 2019-11-01 22:29 | Trackback(128) | Comments(0)