堀辰雄さんの『大和路・信濃路』。 「信濃路」の「辛夷の花」中に、主人公が奈良を巡り木曽福島で泊ってから再び汽車に乗っているときのことが書かれています。 隣の夫婦が辛夷の花が咲いていると話しているのを小耳をはさみ、本を読んでいた主人公の妻に話しかけます。 「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ。ちょっと見たいものだね。」 「あら、あれをごらんにならなかったの。」妻はいかにもうれしくってしようがないように僕の顔を見つめた。 「あんなにいくつも咲いていたのに。……」 「嘘をいえ。」こんどは僕がいかにも不平そうな顔をした。 「わたしなんぞは、いくら本を読んでいたって、いま、どんな景色で、どんな花がさいているかぐらいはちゃんと知っていてよ。……」 「何、まぐれあたりに見えたのさ。僕はずっと木曾川の方ばかり見ていたんだもの。川の方には……」 「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさえぎって山のほうを指した。 「どこに?」僕はしかし其処には、そう言われてみて、やっと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がしただけだった。 「いまのが辛夷の花かなあ?」僕はうつけたように答えた。 「しようのない方ねえ。」妻はなんだかすっかり得意そうだった。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」 が、もうその花さいた木木はなかなか見あたらないらしかった。僕たちがそうやって窓に顔を一しょにくっつけて眺めていると、目なかいの、まだ枯れ枯れとした、春あさい山を背景にして、まだ、どこからともなく雪のとばっちりのようなものがちらちらと舞っているのが見えていた。 僕はもう観念して、しばらくじっと目をあわせていた。とうとうこの目で見られなかった、雪国の春にまっさきに咲くというその辛夷の花が、いま、どこぞの山の端にくっきりと立っている姿を、ただ、心のうちに浮べてみていた。そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。…… [堀辰雄、『大和路・信濃路』より] この妻というのが堀多恵子さんで、昭和18年に奈良に訪れ、帰りに木曽福島に寄ってからの汽車の中のことを書いたものです。 堀多恵子さんの『来し方の記・辰雄の思い出』には、 十八年には寒い二月に、若い医学生の森達郎君をつれて志賀高原に雪を楽しみに出かけたり、四月には私と、木曾路をまわって大和に行ったりした。木曾福島のつたや旅館で、宿の女主人に乞われて画帳に書いた。 春の大和に往って 馬酔木の花ざかりを見ようとして途中木曾路をはって来たら 思ひがけず雪がふっていた これは数少い自筆の一つとして残った。 [堀多恵子、『来し方の記・辰雄の思い出』より] 読んでいて、久しぶりに堀多恵子さんの本をまた読みたくなりました。 堀多恵子さんの『少女との対話』。 装幀は、串田孫一さん。 堀多恵子さんのこの本が一番好きです。 ずいぶん昔ですが、COWBOOKSさんが南青山にあった頃に手にいれた本です。 朝から強い北風が吹き、時々不気味な風の唸りが聞こえていた。 そんな日の昼下がり、玄関のベルが鳴った。戸を開けて出て見ると、生き生きと輝くような少女が両頬を真っ赤にして立っていた。彼女は門扉が開いていたので、おそるおそる中に入って来て見ると、誰かがいるような気配に、勇気を出してベルを押したのだときちんと説明し、丁寧に挨拶をした。 ヴェランダには火の気はなかったが冬の陽が一杯に射し込み、暖かな場所をつくっていた。私は彼女に中に入ってもらった。一月にもこの寂しい山麓の里を訪ね、わが家のベルを押した人が何人かいたが、風邪気味だった私は誰にも逢わなかった。今年初めてのかわいい来客である。椅子に腰かけた少女はふっくらとした両手で頬を押さえ、少し恥ずかしせかうに笑っていた。寒風を突いて一生懸命歩いて来たのだろう。 [堀多恵子、『少女との対話』] 堀多恵子さんの文章を読むと、信州の高原の明るさやすがすがしさがありありと伝わってくるかのようです。 この「少女との対話」の舞台は、軽井沢から西へ2駅の信濃追分で、いまは堀辰雄文学記念館になっているところだと思います。 信濃追分や軽井沢は、堀辰雄さんや室生犀星さんに深沢紅子さんの記念館、立原道造さんもゆかりの地で、何年も行くのを憧れているところなのですが、軽井沢に停まらない北陸新幹線に乗ってしまって寄れていません。 持っている堀辰雄さんと堀多恵子さんの本です。 金沢の室生犀星記念館で、堀辰雄さんの展示をしていて、多恵子さんがとってあった辰雄さんからの手紙が展示されていて、そのときから信濃追分の堀辰雄文学記念館に行きたいと思っていました。もう5年もたってしまいました。 今年行きたいけど、諸事情で無理かもしれません。
by momokororos
| 2020-07-07 22:38
| 本
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