篠田桃紅さんの『桃紅 私というひとり』を再読しています。 表現したいと想う気持ちは強いはずなのに、自然に対する感受性が強く、素直に対峙している篠田桃紅さんは素敵だなと思います。 大粒の雨が、板敷きをみるみる濡らしていくのを眼で追いながら、「こんなふうに私も墨を落としてものをつくれたらいいな」と、思う。 強く、打つような、またふと、こぼれたような、水のつくるかたち、その重なり、連なり、撥ね、弾み、また濃い、溜り、見つめ追う眼も心もうつつなく、捉えようもない。 ただ、そのさまざまの一瞬のかたちの、連なりの時間のかたちが、私の心に残る。一瞬の、確実に現実のかたちが、積み重なったり、ずれたりしながら、心に染まったものは、だが、もう幻想にちかい。現実の眼が、もう一度そのかたちを求めても、もうこの世のどこにもそれはない。 雨は通り過ぎて板敷きはすっかり濡れ切ってしまっても、木や石は濡れそぼち、雫をしたたらせている。雨は口惜しくも、というか、いみじくもというのか、ひとの心を濡らし切らず、渇きを残し、かたちを追わせる。 [篠田桃紅、『桃紅 私というひとり』より] 現実をそんな風に見ていない私は、篠田さんの言葉にハッとさせられます。何を見ているのだろうかと。見慣れた安心したものばかりみているのではないかと日ごろから気をつけているつもりですが見ていないことが多すぎます。 篠田桃紅さよは、大好きな志村ふくみさんの世界に似たものを感じます。 この本の「おわりに」の文章も冬の自然と対峙した篠田桃紅さんの素直で真摯なココロがあらわされています。 十二月の自然は、つぎの生のために、捨てるべきものはいっさい捨てようとしているのに、私は自分の得たもの、持っているものを、捨て切れないでいることも、わかる。 この数日で、富士の裾の小屋のまわりの林や森は葉を落としつくした。林の道が明るくなり、落葉を踏んで歩くとにおい立つ。時雨のくる気配も今はもうなく、しんじつの冬なのだと思う。 道の折れ曲がりのところにくると、風のたまり場なのか、落葉は膝を埋めるほどに深い。木の葉の濡れ色や乾いた色の重なりは、どんな豪華な織物も染物も及ばない。 [篠田桃紅、『桃紅 私というひとり』より] もう十年くらいも前から、わたしは「卒業」ということに憧れていて何を卒業できればと思っていますが、憧れているだけで卒業できていない自分を感じます。 この本は2年前の秋に、関西の本屋さんで手にいれています。買ったお店を珍しく忘れてしまっていますが、姫路のおひさまゆうびん舎さんか、神戸のハニカムブックスさん、神戸の1003さん、大阪の矢野書店さんのいずれかだったと思います。 この本を手にいれたあと、兵庫の尼崎の雑貨の dent-de-lionさんに寄っていました。 古い日本家屋自分で少しずつ改装し、お庭にお花を植えて一軒家の雑貨屋さんを開店させた dent-de-lionさん。 持ちあるいていた本がかなり重くなっていたので、お店で購入した商品と一緒に自宅に送ってもらいました。 その中の1冊が篠田桃紅さんの本だったのですが、店長さんから送る前に読ませてほしいと頼まれました。わたしの好きな本を気にいっていただいてとてもうれしかったことを覚えています。
by momokororos
| 2018-11-17 22:30
| 本
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