リンドバーグ夫人の想い〜『海からの贈物』

リンドバーグ夫人の『海からの贈物』。

美しい海辺の貝殻と海辺の風景の素晴らしさを語りながら、自分の想いを反芻しながらやさしく語るリンドバーグ夫人。

女性が生活をこなしながら自分の時間や創造性をもつ必要があることを、リンドバーグ夫人自身の想いがしっかりと語られており、1955年の著作ながら、いまでも十分に考えさせられる素敵な本だなと感じました。

今の文庫本の表紙です。

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この本はあらたに手にいれた文庫本。

私が昔読んだときの文庫本はこちら。

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昭和55年19版です。

図書館ハードカバーの昭和31年2版を見つけましたが、旧漢字で紙面の余白もあってよいです。

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いずれも訳は、吉田健一さんです。
落合恵子さんの訳の本も出ていました。

前のブログに書いたことの再掲になりますが、中目黒のCOWBOOKSさんで、メイ・サートンさんの『独り居の日記』のことを話していたら、2人のスタッフさんからリンドバーグ夫人の『海からの贈物』はいいよってすすめられました。1人のスタッフさんはどこかに行くときに『海からの贈物』を携えて行くと話していました。

リンドバーグ夫人の書いてあることの引用が多くなりますが、リンドバーグ夫人の海辺の風景の抒情的な文章は素敵かなって思います。


子供を生んで育て、食べさせて教育し、一軒の家を持つということが意味する無数のことに頭を使い、いろいろな人間と付き合って旨く舵を取るという、大概の女ならばすることが芸術家、思索家、或いは聖者の生活には適していない。そこで問題は、女と職業、女と家庭、女と独立というようなことだけではなくて、もっと根本的に、生活が何かと気を散らさずにはおかない中でどうすれば自分自身であることを失なわずにいられるか、車の輪にどれだけと圧力が掛って軸が割れそうになっても、どうすればそれに負けずにいられるか、ということなのである。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

女性が子どもを産み、家事を含め生活をこなすことが、自分のことを考える時間を意識的に作ることはかなり大変だということはなんとなくは感じていたものの、知り合いの女性の子育てを目の当たりにしてみると、並み大抵のことでなく自分の時間がほとんどないことがやっとわかりました。


リンドバーグ夫人は、1人の時間の過ごす大切さと内面の豊かさについても書いています。

我々は今日、一人になることを恐れるあま余りに、決して一人になることがなくなっている。家族や、友達や、映画の助けが借りられない時でも、ラジオやテレビがあって、寂しいというのが悩みの種だった女も、今日ではもう一人にされる心配はない。家で仕事をしている時でも、流行歌手が脇にいて歌ってくれる。昔の女のように一人で空想に耽るほうが、まだしもこれよりは独創的なものを持っていた。それは少なくとも、自分でやらなければならないことで、そしてそれは自分の内的な生活を豊かにした。しかし今日では、私たちは私たちの孤独の世界に自分の夢を咲かせる代りに、そこを絶え間ない音楽やお喋りで埋めて、そして我々はそれを聞いてさえもいない。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

これは女性でも男性でも同じことかもしれません。自分のココロの声に耳を傾けるというより、外の刺激を求めて満たされたような気になっている傾向が強いことを感じます。


リンドバーグ夫人は、島で一人で暮らしながら、ゆるやかな時間の中で考えてきて得たものがたくさんでしたが、いずれは島から離れます。

私が手に入れた宝をなくすのをこれほど恐れているのだろうか。それは単に私に芸術家の素質があるからだけではない。芸術家は勿論、自分を小出しに人に与えることを好まない。自分がいっぱいになるまで待つことが芸術家には必要だからである。しかしそれだけではなくて、私が思い掛けなくこういう気を起すのは、私が女だからでもある。
これは矛盾していると言わなければならない。女は本能的に自分というものを与えることを望んでいて、同時に、自分を小刻みに人に与えることを喜ばない。(中略) 私の考えでは、女は自分を小出しに与えるということより、無意味に与えるのを嫌うねどある。私たちが恐れるのは、私たちの気力が幾つかの隙間から洩れて行くということでなくて、それがただ洩れてなくなるのではないかということなのである。私たちが自分というものを与えた結果は、男がその仕事の世界で同じことをした場合のようにはっきりした形を取らない。一家の主婦がやる仕事は、雇い主に給料を上げてもらうこともなければ、人に褒められて私たちが及第したことが解るということも殆どない。子供というものを除けば、殊に今日では、女の仕事は多くの場合、眼に見えないのである。私たちは家事と、家庭生活と、社交に属する無数の内容を異にした事柄を一つの全体に組合せるのを仕事にしている。それは眼に見えない糸を使って綾取りをやっているようなもので、この家事や、お使いや、お付き合いの断片が混ぜこぜになっているのを指して、どうしてそれを一つの創造と呼ぶことができるだろうか。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

かつて絵を描き、お花をたしなんでいて、最近は毎日毎日2人の子育てに奮闘している女性のことを思います。「できたこと」を頑張りましたって自ら意識して、ほんとに頑張ったねっと認めて褒めてあげたいと思っています。そして少しの余裕の時間を作ってあげることができたらなあって思っています。

女はそれとは反対に、一人で静かに時間を過すとか、ゆっくりものを考えるとか、お祈りとか、音楽とか、その他、読書でも、勉強でも、仕事でも、自分の内部に向わせて、今日の世界に働いている各種の遠心力な力に抵抗するものを求めなければならない。それは体を使ってすることでも、知的なことでも、芸術的なことでも、自分に創造的な生き方をさせるものなら何でも構わないのである。それは大規模な仕事や計画でなくてもいいが、自分でやるものでなくてはならなくて、朝、花瓶一つに花を活けるのは、詩を一つ書いたり、一度だけでもお祈りするのと同様に、忙しい一日の間、或る静かな気持を失わずにいる結果になることもある。要するに、少しでも自分の内部に注意を向ける時間があることが大切でなのである。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

わたし自身への言葉としても受けとめたいリンドバーグ夫人の言葉。
またじっくり読みたいと思います。


『海からの贈物』〜リンドバーグ夫人 」〜2016年 11月 19日の日記
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by momokororos | 2016-11-29 23:03 | | Trackback | Comments(0)


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