ピエール・マッコルランさんの『恋する潜水艦』。
人間と機械のあいだの婚姻が成立する世界での、自意識をもつ潜水艦の713号と潜水艦に乗る船長、船員の物語で、読んだことのないタイプの小説でした。好き嫌いはあるかと思いますが、私は惹きこまれました。 わたしの潜水艦はまったく他の潜水艦とは違う。まあいささか「自意識過剰」かもしれないが、これには目をつぶろう。誇りをもって、わたしは彼を愛していると言うことができる。まったくたいした奴だ。 [『恋する潜水艦』より] アドラータという女性に恋した潜水艦。 愛嬌たっぷりに口をとがらし、彼女は手を握りしめて叫んだ。「なんて素敵な潜水艦でしょう!頭がよさそうよ!」 七一三号が自惚れでいっぱいに膨らんでいるのは確かだった。側面の装甲盤をとめる三つのリベットの二つがドックの澄んだ水に飛び込んだのだから。 (中略) 一日ドックの一夜、沈思黙考ののち、わたしは潜行を命じた。 潜水艦はきっぱりと反抗した。いつもの翻訳を通じて、もったいをつけずに明確な意思を伝えてきた。 七一三号はマラカイボからの出航を望んでいない。ベネズエラおよびベネズエラ女を愛しており、ベネズエラへの帰化を希望する。 彼のアドラータへの想いは、わたしの理解を超えていた。 [『恋する潜水艦』より] 恋をした潜水艦は...どうなるのでしょうか。 メルヘンチックな香りも感じるこちらの小説が幻想文学というのかは厳密にはわかりませんが、幻想文学は特殊なジャンルと思いこんでいましたが、小説のフィクションもファンタジーも一種の幻想かめしれません。 定義がよくわからないながらも、ファンタジーやナンセンスと言われる物語をいろいろ読んできているのですが、幻想小説といわれるジャンルは、その言葉からイメージされるものにひきずられてあまり読んできませんでした。 幻想について、この本の解説に書かれていることを引用します。 幻想を呼び起こすのにもう超自然の力を借りる必要はない。マッコルランにとって《社会的幻想》を見るきっかけとなるのは、モンマルトルの居酒屋であり、ルーアンの船乗りバーであり、アッジェの写真であり、ブレストの港であった。 「だれもがじぶん自身の不安の影を、樹々の陰に、交差点に、街角に、締まりの悪い扉のうしろに見つけることができる。世界が耳をすますために呼吸を止めてしまうような瞬間があるものだ。社会的幻想とは、こうしたかなり複雑なイメージを解釈するものの見方にすぎない」(『あつらえの仮面』) こういう風に幻想をとらえると、幻想も面白いかもと思えてきました。 『恋する潜水艦』は、二階堂奥歯さんの著作の『八本足の蝶』にでてきた1冊で、二階堂さんの文章にこんなくだりがあります。 幼稚園から小学生にかけて生きていた世界は間違いなく今より呪物的だった。 私は神人が作りだす伝説と、魔法の道具とに囲まれていた。 通学路でひろったすべすべの小石(引き延ばしたら雨だれのような形をしている)はただの石などではなく、世界から私へ向けられる暗号だったし、虫眼鏡は単なる柄のついた凸レンズなどではなかった。 [『八本脚の蝶』より] よく言われる子ども時代の幻想。 そんな子ども時代に思い描いていた夢想、幻想、盲目的にかついでいることなど、いまの自分にあるのだろうかと問いかけてしまいます。 ピエール・マッコルランさんの他の小説も読んでみようかなって思います。
by momokororos
| 2016-09-13 22:26
| 本
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