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矢川澄子さんの『兎とよばれた女』。

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絵本などの翻訳者として時折見かけていましたが、矢川さん著作を読むのは初めてです。少し前に、澁澤龍彦さんの昔の伴侶だったことを知りました。

『兎とよばれた女』は、ちょっと複雑で、矢川澄子さんの生いたちを確認しながら読みました。

複数の主人公たち、冒頭の女性、兎、かぐや、かぐやの物語のノートの筆者が登場しますが、それらは矢川澄子さん自身であり、個人的な苦悩が、過去からそしてこれからも永遠と続く愛の普遍的な苦悩にほかならないのだと、複数の主人公たちを借りて表現しているようにわたしは感じました。

ゆるしてね、わたしはあなたにおねがいすることにきめてしまったの。あなたにみていただく、知っていただく。あなたの容赦ないまなざしのまえに、いままでのあやふやな迷いのあとをのこらずさらけだして、きびしく鍛えあげ、叩き直していただく。この低迷の淵をぜひともぬけだし、この身がいままでの一度よみがえり舞いたつため、それもこんどこそはほんものの翼をもつ、ほがらかな、あかぬけたものとして、生あるかぎりどこまでもはろばろと天翔けるためには、もうそれしか、道はのこされていないような気さえするのです。
[矢川澄子、『兎とよばれた女』より]

と女性が男性に話し、そして神さまと兎が住んでいる島国の話しが語られます。

神さまはまさしく兎のすべてでした。途方もうなく大きくゆたかにひろがって、兎の全身をあたたかくすっぽい包みこんでくれることもあれば、また無限にこまやかに小さく小さくなって、兎の心の微細な日だの隅々にまでわけ入ってきてくれることもありました。
[矢川澄子、『兎とよばれた女』より]

目に見えないけど、存在を信じて疑わない兎が、神さまを感じるだけで幸せな兎。幸せなはずの兎ですが、過去の方へ目を向けるようになります。兎がみつけたかぐやの物語の本を読んで、この世の悲惨や矛盾に苦しめられたかぐやと、いま神さまとしあわせな兎自身は関係ないと思いながらも自分自身の過去もしくは想いに気づかされます。

現実の世界と過去の世界との想いの交錯は、冒頭で出てきた迷いを感じている女性も、地上での日々に限りをつけるかぐやも、悩んでいる兎も、同じような悩みを抱えています。

そして、兎はこう悟ります。

かつて兎がおのれひとりの苦難と思いこんで苦しみ、迷いぬき、あげくの果てに現実を断念せざるをえなかったこと。いまにして思えばけして兎ひとりの身にかぎられたものではなかったのだ。この世にはまだ兎とおなじ苦しみをわけもってくれるつつましいけなげな同類たちがいまでもたくさんおり、これからもまた後を絶たぬであろう。そればかりか、おなじことを苦しんでくれた女は、いままでにだって数限りなくあったはずである。
自分はいまこそ救われる、と兎は思った。いままでわが身ひとりのものと信じこんできたその苦しみが、大いなる普ねきものの一端にすぎないことを悟ったとき、兎のこころにひとすじの光明がさしそめたのだった。
[矢川澄子、『兎とよばれた女』より]

2人の男性に愛された矢川澄子さん。
澁澤龍彦さんと結婚し、のちに谷川雁さんと結婚を望んでいた矢川澄子さん。矢川さんの苦悩は、小説の中の主人公の悩みと重なり、普遍性あるものに昇華されます。
71歳で自死を選んだ矢川さん。
『兎とよばれた女』はもっと前に書かれた本ですが、苦しい思いから解放された、かぐやや兎、それは矢川澄子さんだったのでしょうか。そう思いたいです。


『兎とよばれた女』を読んで、大好きな歌を思いだしました。
むかしから繰りかえされる恋物語の悲しい結末を乙女に言いきかせるような、島崎藤村さんの『若菜集』の中の「おきく」です。

途中から抜粋します。

あゝむかしより
    こひ死にし
をとこのありと
    しるや君

をんなごころは
    いやさらに
ふかきなさけの
    こもるかな

小春はこひに
    ちをながし
梅川こひの
    ために死ぬ

お七はこひの
    ために焼け
高尾はこひの
    ために果つ

かなしからずや
    清姫は
蛇へびとなれるも
    こひゆゑに

やさしからずや
    佐容姫は
石となれるも
    こひゆゑに

をとこのこひの
    たはぶれは
たびにすてゆく
    なさけのみ

こひするなかれ
    をとめごよ
かなしむなかれ
    わがともよ

こひするときと
    かなしみと
いづれかながき
    いづれみじかき
[島崎藤村、『若菜集』より「おきく」(抜粋)]


「素敵な装幀~『明治・大正詩集の装幀』から」〜2015年7月21日の日記
http://momokoros.exblog.jp/23449022/

by momokororos | 2016-10-31 22:47 | | Comments(0)
これまで絵本を読むことが多かったですが、最近は児童書も読んでいます。

図書館で読んでいていいなって思った1冊。テルマ=ボルグマン=ドラベスさん作で、シルビー・セリグさんが絵の『あるきだした小さな木』。

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パパとママの木のそばの、ちびっこの木。飛べる小鳥が憧れ、人間の男の子や女の子に興味をいだく。木を揺すり根っこを抜き歩きだし、ある土地に居すわった木の運命は...先を読みたくなる物語で絵もきれいです。

読んだあとに、学芸大学の流浪堂さんを訪れて、流浪堂のご夫妻に『あるきだした小さな木』のことを話したところ、流浪堂ご夫妻も大好きとのこと。
お店に置いてあって出してきてもらいました。出してきてもらったというよりお店に入ったところに飾られていました。常に常備するようにしているという程、好きな児童書みたいで、店長さんはこの本のことをどこかに書いているみたいです。今度訪れたときに聞いてみたいなって思います。

児童書は、絵本屋さんで紹介されたときにときどき手にいれていましたが、知り合いに小学校にあがったばかりのお子さんがいて、どんな児童書がよいのだろうかって、図書館で読みはじめました。

読み聞かせではなく、子どもが自分で読める字の大きさやどんな内容がいいのか最初はまったくわかりませんでした。よく行く姫路のおひさまゆうびん舎さんで小学校1年生が読める本はかなり字が大きいということを教えてもらいました。小学校1年生の教科書の字をみたらびっくりするほど大きかったです。絵本の字が小さいので、小さな字でも自分で読めると勘違いしていました。

前にブログに載せた、いとうひろしさんの『おさるのまいにち』もそんな1冊です

いまや自分がはまるほど児童書を読んでいるのですが、いいなって思う児童書も絵本とともに紹介していきたいと思います。

「『おさるのまいにち』〜素敵な児童書」〜2016年10月6日の日記
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by momokororos | 2016-10-30 22:20 | | Comments(0)
林芙美子さんの『放浪記』。
いろんな本を読みながらも、気がついたら『放浪記』にもどってきている自分がいます。

今宵は、昭和25年発行の中央公論社版の『放浪記』を読んでいます。

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夜の都会を歩いていると放浪記の林芙美子さんを想い、放浪記を読んでいると夜の都会を懐かしみます。
林芙美子さんのやりきれない気持ちがわかるし、うれしさを抑えきれない気持ちもよくわかります。

男と云ふ男はみんなくだらないぢゃないの!蹴散らかして、踏みたくつてやりたい怒りに燃えて、ウヰスキーも日本酒もちやんぽんに呑み散らした私の情けない姿が、かうしていまは静かに雨の音を聞きながら床の中にぢつとしてゐる。今頃は、風でいつぱいふくらんだ蚊帳の中で、あのひとは女優の首を抱へてゐることだらう……そんなことを思ふと、私は飛行船にでも乗って、バクレツダンでも投げてやりたい気持ちなのです。
[林芙美子、『放浪記』より]

魂の声とも思える林芙美子さんの言葉。どん底に落ちながらも陰鬱感は感じません。むしろ微笑んでしまう感じで共感してしまいます。
「バクレツダン」ですか?って林芙美子さんと会話してみたくなります。


少し長いけど引用します。

白い萩の花が咲いてゐるところで横になる。草をむしりながら噛んでみる。何となくつゝましい幸福を感じる。夕陽がだんだんと燃えたつてくる。
不幸とか、幸福とか、考へた事もない暮し
だけれど、この瞬間は一寸いゝなと思ふ。しみじみと草に腹這つてゐると、眼尻に涙が溢れて来る。何の思ひもない、水みたいなものだけど、涙が出て来るといやに孤独な気持ちになつて来る。かうした生きかたも、大して苦労には思はないのだけれど、下宿料が払へないと云ふ事だけはどうにも苦しい。無限に空があるくせに、人間だけがあくせくしている。
夕焼の燃えてゆく空の奇跡がありながら、さゝやかな人間の生きかたに何の奇跡もないと云ふことはかなしい。別れた男の事をふつと考へてみる。憎いと思ふところはみんな忘れてしまった。
いまは眼の前に、なまめかしい、白い萩が咲いてゐるけれど、いまに冬が来れば、この花も茎もがらがらに枯れてしまふ。ざまあみろだ。男と女の間柄もそんなものなのでせう。不如帰の浪子さんが千年も万年も生きたいなんて云つているけれど、あまりに人の世を御ぞんじないと云ふものだ。花は一年で枯れてゆくのに、人間は五十年も御長命だ。あゝいやな事だ。
[林芙美子、『放浪記』より]

「ざまあみろだ」ていう言葉が出てきます。お花に対して普通だと嫌に思う言葉だと思うけど、林芙美子さんの心情を察して苦笑せざるを得ません。
林芙美子さんの何を知っているわけではないのですが、素直な気持ちを吐露する林芙美子さんへの憧れにほかならないと思っています。

前に林芙美子さんのことを書いたブログでも書いていますが、自分のうれしいことやかなしいこと、そして自分の嫌な部分もさらけだして語る姿に憧れを感じます。

何度読み返したかわからない『放浪記』。今宵は飲みながら、林芙美子さんと語りたいと思います。林芙美子さん、いい人生過ごしましたねっ言ってあげたいです。


「『放浪記』の魅力〜林芙美子さん 」〜2016年7月25日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24552378/

「渋谷道玄坂のにぎわい~大正時代と今 」〜2016年3月13日
http://momokoros.exblog.jp/24216625/

by momokororos | 2016-10-29 23:00 | | Comments(0)
高円寺の絵本のるすばんばんするかいしゃさんで、近藤晃美さんの「円い草」の展示会が開催されています(展示は延長されて、11/13日曜まで)。

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色遣いがとても素敵な絵です。

近藤晃美さんの作品集が展示にあわせて展示販売されています。
ミナ ペルホネンさんの紋黄蝶の2016–2017 Autumn / Winter Collectionのデザインを担当されたサイトヲヒデユキさんの装幀で、るすばんばんさんのご夫妻が作った1冊1冊構成が異なる作品集が魅力です。

箱と作品集本体です。

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和綴じで素敵な装幀です。

作品集の中身です。

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赤の色遣いが魅力です。

紙面に絵が印刷されたのだけでなく、随所に紙が差し込まれていたり文章が挿入されていたりと、かなり凝った作りです。

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この中に近藤晃美さんの子どもの頃の絵も掲載されています。

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子どもときの絵なのか、大人になってからの絵なのか区別のつかない絵も多く、そこが魅力です。

作品集もよいのですが、やはり実際の絵を見ると、勢いだったり、キャンバスを越えた広がりを感じ、無限に空想が広がる感じです。

展示は11/13(日)まで。近藤晃美さんの在廊日は11/6日曜、11/7月曜、11/13日曜とのことです。

去年2015年の近藤晃美さんの展示も見にいっています。

近藤晃美さんの展覧会「小屋、ゆびきり」~高円寺 2015年11月15日の日記
http://momokoros.exblog.jp/23872625/

by momokororos | 2016-10-29 13:57 | 芸術 | Comments(0)
井伏鱒二さんの『珍品堂主人』。

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骨董の真贋をめぐるかけひきが面白く、大好きな小説の1つです。

少し前に小沼丹さんの随筆を読んだときに、姫路のおひさまゆうびん舎さんと小沼丹さんや小山清さん、そして井伏鱒二さんの話しをしていたのですが、この前のお片づけしていたときに『珍品堂主人』が出てきたので、久しぶり再読してみようと思いました。

「掘出しものを見つけて自分の所有物としたときの魅力に憑かれた」骨董屋の珍品堂主人。

珍品堂としては、自分でさんざ楽しんだ道具です。安く売っても元は取れているようなものですが、不思議なもので、そうは行かないところが骨董であるのです。
つまり来宮の持論の通り、自分の好きな女ぬ逃げられて行くような気持でした。いよいよ別れるとなると、どうしても金銭ずくでは割切れないものがそこにある。
[井伏鱒二、『珍品堂主人』より]

骨董を売り買いしたことないのですが、惚れて手放すときが自分の女に逃げられるのと似ているという感覚は想像しがたいです。自分が持っている本はほとんど手放したことはありませんが、そこまでの思い入れはないのではないかと思います。

そして手放した骨董がもどってきたときに、珍品堂主人は、「惜しみながら別れた可愛い女の子に再会したような気持」を感じています。


そして骨董をめぐるかけひき。
骨董を扱う同業者に珍品堂主人が「しめた」と思うくだりです。

これが一般の取引なら、その大和古印は贋物だと宇田川に云うべきです。しかし骨董気違いには、親子兄弟と雖も気を許してはいけないと云われている通り、珍品堂主人は「いい鴨だ、しめた」とばかりに顔色ひとつ動かさない。鼻ぐらいは少しぴくぴくさせたかもしれないが、知らん顔で云ったことでした。(中略) しかし骨董屋の間では、贋物をつかまされたら実力がなかったと思うよりほか致しかたないことになっている。
[井伏鱒二、『珍品堂主人』より]

白洲正子さんも骨董好きで、だまされたって話しを著書に書いています。
その道の専門家までも騙すくらいの贋作を作る手腕もすごいなって思います。


この珍品堂主人は、秦さんをモデルにしており、白洲正子さんは著書の中で秦さんのことを書いています。

『独楽抄』には、白洲正子さんと秦秀雄さんの対談が載っています。

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買うことが好きでなかったら、この世界ではもう落第生でね、と秦秀雄さんは言っています。
[白洲正子、『独楽抄』より]


『対座』には、珍品堂主人の話しと秦さんの『目ききの眼』の本について書かれています。

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しぜんそれは「三千円で三十万円のものを買おうとする奴がニセモノだよ」という論理を生み、「ニセモノをつかんで来たら、返してはいけない。口惜しくてもじっとそれをもって、ニセモノらしさをよく便利させてもらうことです」というエチケットにまで及ぶ。
[白洲正子、『対座』より]


『雨滴抄』には、骨董の壺中居の2代目主人の広田煕の話しの中に、やはり珍品堂主人の秦秀雄さんがでてきます。

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これは美術商ではないが、美術界の変わり種の中には、秦秀雄氏も入るだろう。今、井伏鱒二さんが、「中央公論」に、「珍品堂主人」という小説を書いていられるが、彼はそのモデルである。今のところでは、骨董の売り買いの面白さの話で、秦さんの人間は描かれいないが、よほどの人物であるらしい。
[白洲正子、『雨滴抄』より]


秦秀雄さんの著作の『見捨てがたきもの』もどこかにしまってありすぐにはでてこないのですが、いい本です。

器はときどき手にいれますが、骨董にハマルと身をほろぼすことになりかねないかもなのでおとなしくしています。

by momokororos | 2016-10-28 22:49 | | Comments(0)
今年もシクラメンのお花の季節がきました。

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こちらはお庭に置いてありますが、明るく映えるので、冬の家の中でも置いておきたいお花です。

by momokororos | 2016-10-27 23:04 | お花 | Comments(0)
室生犀星さんの『蜜のあはれ』の単行本を手にいれました。

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栃折久美子さんの金魚の魚拓の表紙で、憧れていた本の1つでした。

『蜜のあはれ』は、東京の国立のピチュンヌさんという雑貨屋さんの、本が大好きな店長さんに教えてもらった本で、文庫本で読んでいました。

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好きが高じて、金魚の魚拓の表紙の単行本がほしくて4、5年くらい前から探していました。探していたというより出会うのを楽しみにしていました。

去年、金沢にある室生犀星記念館を訪れてさらに好きになった室生犀星さん。
映画の『蜜のあわれ』が公開されたのにあわせて「蜜のあはれ」が展示されている今年の4月にも室生犀星記念館に訪れました。

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そのときに、室生犀星記念館の2階のライブラリーで、金魚の魚拓が表紙の『蜜のあはれ』の単行本が置いてあるのを見つけて初めて実物を手にとりました。

室生犀星記念館で出会ったことを京都西陣の古本のマヤルカ古書店さんに話したところ、魚拓の表紙の『蜜のあはれ』を持っているとのことで驚きました。マヤルカさんでは室生犀星さんのいい本を何冊か手にいれています。

しばらくしてから、神戸元町の古本の1003さんの店長さんから、阪神の古本市にマヤルカさんが『蜜のあはれ』の単行本を出展されていたと思う、と言っていたので、その次の日にマヤルカさんへ行ってみました。
マヤルカさんの店長さんは休みでしたが、お店番をしていた方が店長さんに確認をとってくれました。が、残念ながら出展していなかったとのことでした。

しばらく『蜜のあはれ』のことは忘れていましたが、神保町の古本屋さんで『蜜のあはれ』の単行本の初版を見つけました。偶然見つけたので喜びもひとしおです。

『蜜のあはれ』の表紙に使われている金魚の魚拓を、室生犀星さんから頼まれて苦労してとった栃折久美子さんは、その話しを『美しい書物』に書いています。

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さらに、室生犀星さんの『火の魚』にも金魚の魚拓の話しがでてきます。

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折見とち子なら父君の魚拓をとるところも見てゐたし、この人に魚拓を頼んで見たらどうだらうと私は思ひ、先ずこの人のほかに頼んで見る人もないやうだ、私は折見とち子に手紙を書いてこんどの本の内容には、一尾の朱いさかなが、結局死ぬことになり、空から頭を突つ込むやうにして海に降下して行く、さういふ精神力を持った魚拓がほしいのですが、願へたらその魚拓を一枚とつてくれませんか、実はその小説は一尾の金魚に託して私の昔知つた女の人を描かうとしたもので、たわいな小説ではあるが、そのたわいなさが書いたあとまで私に宿つて、困つてゐるとでも言へる小説なのです。
[室生犀星、『火の魚』より]

この中の折見とち子は、実際の栃折久美子さんをモデルにしていています。
栃折久美子さんのとった魚拓は、そのまま『蜜のあはれ』の妖艶な世界につながっているようにも思えます。


室生犀星さんの『蜜のあはれ』は何回か日記で紹介しているのですが、魅力あふれる作品です。

「蜜のあわれ」の映画も見たいと思っていたのですが時期を逃しました。

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主役の二階堂ふみさんは適役かなって思います。小説を先に読んで映画を見たいと思ったことはこれまでないのですが、いつか見てみたいと思っています。


「金沢春のお散歩(其の四)~室生犀星記念館」〜2016年4月13日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24300989/

「金沢慕情(其の一)~室生犀星さん 」〜2015年5月9日の日記
http://momokoros.exblog.jp/23086942/

by momokororos | 2016-10-26 23:08 | | Comments(0)
ピエール・マッコルランさんの『アリスの人生学校』を読みました。

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この小説は、二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』に紹介されていた本です。ピエール・マッコルランさんの小説は、『恋する潜水艦』に続いて2冊目です。

折檻に性的倒錯の記述がある小説であることを初めに言っておきたいと思います。


地方の古めかしいきびしいしつけのもとで育てられたアリス・ミューレイ。

アリスが借りて読み友達に貸した禁断の本であるヴォルテールの『カンディード』。読んでいることが親にばれて、禁断の本を読んだアリスや友達は折檻されます。
『カンディード』は、友達から友達に渡り、年頃の女の子をとりこにしましたが、アリスを折檻する継母もはまってしまいます。自分と同じように娘が同じ本を楽しんだことが我慢なりません。「恥辱」を与えられながら折檻します。

その本の発端が知り合いの召使いの女の子からのものだとわかり、主人に問いつめられる召使いの女性。

だから次にじぶんが呼ばれれば、どんなことが起こるか、ちゃんと知っているのだ。それで、すこしも驚いたふりを見せなかった。いつでもコケティッシュになれるだけの用意があるし、じぶんの美しさに対するはっきりした自信を持っている。
さっきから指のさきを動かしながら、彼女は長い睫毛の下から、主人がいかに自分の魅力に心を奪われているかを観察していた。

男性の心理をくすぐる自分を知っているしぐさに言葉を使い折檻を逃れます。召使いと主人は結婚するのだけど、彼女の媚態と技巧にフヌキにされてしまいます。


一方アリスは、老人との望みもしない結婚を余儀なくされて、初日から恐るべき旦那の異常性壁にさい悩まされる。解放を夢みるアリス。だけど解放されたときの不安がつきまといます。

こうした不安があるほかに、もっと苦痛だったのは、絶えず夢みる解放された時と現在との矛盾が、前より強くするどく意識にのぼってきたことだ。この比較はときどき起こった。というのは、セレスタンにいじめられているときは恐怖に圧倒されてものを考える余裕もなく、飼い馴らされた動物のようになってしまうからだった。日夜くりかえされる苛虐と服従は習性となって身にしみこみ、彼のまえに出ると反抗する力は痺れてしまって、どんなひどい要求をされても泣き叫びながら従うほかなかった。
[ピエール・マッコルラン、『アリスの人生学校』より]

この小説では肉体的かつ精神的な苦痛を味わせられているのですが、現代でも「飼い馴らされ」ていることがあり、さらに声をあげられないという精神的苦痛も多々あるのではないでしょうか。いくら現実が理不尽できびしくとも新しい世界に踏みだすためにはかなりの不安と労力を要するものなのだ、ということも思いおこされます。

ここにはあげませんが、物語の最後の章のアリスの言葉は、つらいことを経験した人が語る言葉だなって感じました。

人道上許すべからざるおぞましいことや性的倒錯の話しも出てきますが、それぞれ登場人物の人間の奥底にひそむ性癖や、時代背景や逆らえない心理を描いていて興味深いなって思いました。

by momokororos | 2016-10-25 22:39 | | Comments(0)
吉田篤弘さんの『小さな男*静かな声』を読みました。

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姫路のおひさまゆうびん舎さんで、吉田篤弘さんの話しをしていたときに、おすすめしてもらった本です。

吉田篤弘さんは、『つむじ風食堂の夜』、『木挽町月光夜咄』、『針がとぶ』を読んできました。


小説に出てくる主人公たちは、自分のことを書かれているかのような感じしました。

百貨店に勤める「小さな男」が主人公の1人。
そういえば、もしかして、こうではないか、やはり、というような自分自身の日常の思考過程や、「優柔不断な性格で、整理整頓が大の苦手で、そのうえこまごました買い物をするのが何より好きである。」と自己分析をします。

優柔不断で整理整頓が苦手なうえ細々としたものを買ってしまうのも、自分とそっくりでないかと思いました。


自分の声が嫌いなラジオのパーソナリティをしている女性がもう1人の主人公です。

よく行くお店の店先に「只今、支度中」の看板をだしているお店のくだりがでてきます。

支度中っのはそういうことなんです。まだ行き渡りませんが順にやってまいりますので、もう少々お待ちくださいーと、これが支度中ですよ。なにしろ僕ひとりでまわしているわけですから。僕ひとりで支度して俺ひとりで片づけして、次から次へとやって来るお客さんの愚痴をフンフンと聞いて、そんなこんなで、あっという間に今日が終わって明日になっちまって、なあんにも整わないままバタバタするうちまた夕方がやって来やがって、それで支度を始めてふと気付くとお前さんがそこに座っている。
[吉田篤弘、『小さな男*静かな声』より]

何も整わないまま明日になる、ってことは私もよく経験することです。そこに焦燥感をいだくかいだかないかは人それぞれかと思いますが、わたしは焦燥感を覚えてしまいます。
どこで折り合いをつけるかだと思うのですが、「常に進行中であり完結しない」ことについては私自身の課題かもしれないなと思いました。


サンダル履きで化粧もせず、すぐ近くの「そこまでちょっと」のつもりで家、話をでたのに、(中略)思わぬ遠いところまで行ってしまい、困ったなぁとつぶやいたことが一度ならず何度かあった。(中略)だから、自分としてはサンダル履きどころか素足のまま部屋から一歩も出ないつもりでいても、ヘルシンキやナイロビに出張に行くつもりで準備しておかないと後が恐い。
[吉田篤弘、『小さな男*静かな声』より]

わたしも出かけてからどこに行こうかを考えることがよくあって、気がついてみると遠出していることがよくあります。どこへ行っても困らないように出かけます。


日常生活の中での主人公たちの注意やこだわりが、自分のこだわりと重なるところがたくさん出てきます。2人の主人公の思いや語りを通じて、主人公が感じているのと同じ感情が自分の中にあるなと気づいて、読むのが楽しかったです。

by momokororos | 2016-10-24 22:40 | | Comments(0)
お片づけはひと段落。
探している本はいまだ見つからず。

少し前に本棚の写真を載せましたが、本棚とは逆にあるクローゼット側の本です。

右側のクローゼットの中の本です。

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クローゼットの中はすべて本です。こちら側は奥行き1200mmの衣装ケースの中に本を入れて引きだせるようにしています。

クローゼットの前には絵本の本箱を2つ並べています。

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左側のクローゼットの中の本です。

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こちら側も奥まですべて本です。引き出せないので、奥の本を探すときはいったん前の本の山をのけなくてはなりません。

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なんとかしたいと思いながらも、どうすることもできずにいます。

収納の物理的スペースも、どこになんの本があるかの自分の記憶もいっぱいいっぱいかなって感じます。


「お部屋の本棚〜片づけ完了」〜 2016年 9月23日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24676665



by momokororos | 2016-10-23 17:04 | | Comments(4)

かわいいもの、ちいさなものが大好きです


by ももころろ