神戸の1003さんで手にいれた、赤坂憲雄さんの『 性食考』。 行ったりきたり〜姫路から神戸京都、そして姫路 2013年12月19日の日記 お店に入ったときから目についていたのですが、やっぱり手にいれました。 店長さんも読みたいと思ってお店にいれたとのことでした。 昔話に児童書や西欧の物語に触れながら、日本と西欧の自然や動物に対する考え方や文化の違いに話しを展開させています。 金子みすずさんの詩の「大漁」が引用されています。 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。 ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。 [金子みすず、「大漁」] 金子みすずさんは好きな詩人ですが、この詩はよくとりあげられているにもかかわらず、自分としてはピンときていませんでした。 さらに、著者の赤坂さんは、金子みすずさんの「鯨法会」という童謡と、それに対する中村生雄さんの見解をこう述べてます。 狩猟はたんに生業や技術の問題としてだけではなく、世界観・生命観の問題として再考されねばならない。また、人と野生の生きものとはどのような間柄で存在しているのか、さらには、自然と人間とはどういうふうに繋がり、向かい合うべきか。そうした問いを前にして、狩猟という経験と知恵には学ぶべきことが少なからずある、という。 [赤坂憲雄、『性食考』より] 思いつきで、手近にあった絵本を並べてみただけだ。児童向けの作品はたしかに、さまざまな食べる場面が見いだされる。しかも、その食べる場面は当然とはいえ、食べることの裏側に貼り付いた殺すこと、つまり殺害の暴力をむきだしに描くことはない。そして、食べる場面が過剰に描かれているのは、交わること、つまり性のテーマを回避し、ときには隠蔽するものであることが指摘されている。その当否は措くとしても、たしかに子どもの前では、食べること/交わること/殺すことが、固有の物語の文法によっても微妙な変容を強いられているのである。「おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ」という、怪獣たちの身悶えしながらの愛の咆哮は、いったいなにを物語っていたのか。 いや、例外ともいうべき絵本はあったか。たとえば、『ゼラルダと人喰い鬼』(トミー・ウンゲラー作)などには、食べること/交わること/殺すことをめぐって紡がれる、いくらかの異相の物語が、思いがけず真っすぐに提示されている。 [赤坂憲雄、『性食考』より] 「おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ」が載っているのは、モーリス・センダックさんの絵本の『かいじゅうたちのいるところ』です。 この他にも、『ちびくろさんぼ』や『ぐりとぐら』、『あんぱんまん』、『おなかのすくさんぽ』なども引用されています。 さらに著者は、「食と性とが言語とが言語や儀礼において同一視される事例」をあげて、民族によらず普遍的なものであり、タブーでも性的可触性と可食性は共通であると言っています。つまり手を出していけないことと食べてはいけないものは似ているということを言っています。 食欲中枢と性欲中枢は隣接していることにも言及されていて、現象的ではなくカラダ的にも共通した刺激としてあるのかもしれません。 ここまでちょうど半分読みました。 このあとどんな話しが展開するのか楽しみです> この本を買うときに、神戸の1003さんの店長さんと、荒木経惟さんの写真集の『食事』、伊丹十三監督の映画の『たんぽぽ』の話しをしていました。 『食事』は、食べものの写真がエロチックとも思えます、この写真は、荒木さんの妻がなくなるまでの手作りの料理の写真です。 <『たんぽぽ』は、ホテルのルームサービスで頼んだ料理をカップルがエロチックに食べる(食べるのを通じて男と女が戯れる?)シーンがでてきます。 食べることとエロティシズムはまさに共通のものかと思っていましたが、赤坂さんの『性食考』を読んで、ますますその感を否めません。 みすゞ記念館を訪れたときに書いた 文章と、センダックさんの『かいじゅうたちのいるところ』の日記です。 2013年7月13日 『いるいるおばけがすんでいる』〜モーリス・センダックさんの翻訳絵本 2016年8月6日の日記 いるいるおばけがすんでいる、そして、かいじゅうたちのいるところ〜モーリス・センダックさんの絵本 2013年12月19日の日記 『食事』〜荒木経惟さんの写真集 2015年6月4日の日記
by momokororos
| 2017-11-18 22:54
| 本
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