街を一緒にさまよいたい林芙美子さん

都会の喧騒渦巻く繁華街や、繁華街からはずれた暗く闇に溶けこむ街を歩いていると、林芙美子さんの『放浪記』を思いだし、『放浪記』を読むとそんな街への憧れが募ります。

時代の異なるさまざまな建物や、さまざまな人たちや、異なる想いや期待が入りまじった都会の華やかとあやういとも思える雰囲気に、何度通っても魅力を感じます。それは街を歩くだけでも飽きることはありません。

これまで幾度となく日記に取りあげてきた林芙美子さんの『放浪記』。
その魅力を紹介している川本三郎さんの『林芙美子の昭和』を再び読んでみました。持っているにもかかわらず、また図書館で読んでいました。

街を一緒にさまよいたい林芙美子さん_e0152493_21460859.jpg


写真は家に帰ってきてから、持っている本を撮りました。

川本三郎さんは、林芙美子さんの『放浪記』のことをこう書いています。

投げやりというのかやけっぱちというのか、ふてくされたような言葉が次々に投げつけられてゆく。(中略)
この文体は何かに似ていないだろうか。そう、東京という都市の雑踏そのものに似ている。『放浪記』の世界が東京での暮しから生まれているだけではない。文体そのものが都市から生まれている。にぎやかな冗舌体や俗語の多用は、林芙美子がカフェーやセルロイドの工場で働きながら使っているぶっきらぼうな言葉そのものであり、カタカナはにぎやかな都市の音である。体言止めは、雑踏を歩いている林芙美子が町角ごとに立ち止まって、あたりを感嘆したり、怒ったりしながら見まわしている姿のあらわれである。一貫性のない、それでいて全体としては熱気と感傷をはらんだ文体は、都市のざわめきそのものである。
[川本三郎、『林芙美子の昭和』]

まさに、わたしが放浪記と都会に惹かれている理由がそこかもしれません。
街のお洒落なところだけではなく暗くて猥雑なところや、それらが混在していることに魅力を感じます。あやうい場所にあやしい思惑が渦巻き決して安全ではないかもしれませんが、そんな闇の部分も街の魅力の1つです。

さらに、川本三郎さんは海野弘さんの文章を引用しています。

海野弘は、『モダン都市東京』(中央公論社、昭和58年)のなかで、カフェーの女給から出発した林芙美子と平林たい子のことを次のように書いている。

こうして二人の女は、すぐ近くの新宿三丁目のカフェーで働くようになる。1920年代の東京を彼女たちが、いわば身体を張って放浪してゆく生き方はすさまじい。彼女たちの見た都市空間は、同時代の男たちが見たそれよりもずっとリアリティがある。それは悲惨である。しかしそれにもかかわらず、大都市のすべてを見ようとして、街へ大胆に歩みだしてゆく自由な姿勢において、二人はまぎれもなく1920年代の女なのだ。
[川本三郎、『林芙美子の昭和』]

この前の日記にも書きましたが、1920年代も憧れてやまない時代です。

憤りに失望や挫折感を感じながらも、街や人に恋し、希望の光を見いだしささやかな期待をたくすことは、林芙美子さんが情熱的に生きた時代となんら変わらないような気がします。

ふと、林芙美子さんみたいな人と街をさまよいたかったと思いました。


「1920年代の魅力〜『1920年代の光と影』」〜2016年 11月 15日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24928915

「林芙美子さんに想いを寄せて〜『放浪記』」〜 2016年 10月 29日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24773613/

「『放浪記』の魅力〜林芙美子さん 」〜2016年7月25日の日記
http://momokoros.exblog.jp/24552378/

「渋谷道玄坂のにぎわい~大正時代と今 」〜2016年3月13日
http://momokoros.exblog.jp/24216625/

by momokororos | 2016-11-22 23:46 | | Trackback | Comments(0)


<< 探しものの本〜『海からの贈物』... ミヒャエル・エンデさんの『モモ』 >>